信仰

11月12日日曜日

 

 

仕事。有休あけで所属課の人に御礼を言う。この風習必要か?形式的になってしまって本当の御礼の気持ちが伝わらない気がする。

 

 

 

 

最近、信仰について考えている。というか、以前から。他の人より信仰について考えることの多い人生だと思う。

日本は海外と比べて特定の宗教を持つ人が少ないらしいので、信仰といってもピンとこない場面が多いけれど、宗教に限らず『何かを信じる』と言うことは誰にでもあると思う。ただ私に関して言えば、生まれ育った環境に宗教があったので、その宗教への信仰ということになるのだけど。

 

 

 

今日思ったのは、信仰は生きていく上の根幹となる大切で重要なもので、唯一無二の位置付けにあるはずで、他のどんなものとも並列には比べることはできないのではないかということ。

 

そして、特定の信仰を持つからという理由によって、私個人の具体的行動は何も制限されないということ。別のなにかを諦めることにはならないということ。もし諦めたり、制限されるとしたら、もうそれは信仰ではないと思う。信仰ってそんな次元にあるものじゃないはず。そんな狭苦しいものではないはずだ。

 

 

なんか小難しい言い方をしたけど、

・信仰は自由なもの

・信仰のために何かを我慢しなければならないなんて、そんな不自由な生き方はしたくないしするべきではないし信仰もそんなこと求めていないはず

・『この信仰を持っているから⚪︎⚪︎してはならない』なんて思ってきたけれど、それは自分が勝手に信仰を言い訳にして作ってきたものかもしれない

 

そう感じた。そう思いたくなった。

本来の信仰は制限をかけたり、縛りつけるものではないはず。人生を豊かにするものであるはず。そうであって欲しい。

もちろん信仰に関するなんらかの活動をすれば時間的な制約が発生したりはするけれど、そういうことじゃなくて。

 

 

信仰をむやみに特別なものとして捉えて、障害に感じていたのは私のほうだった。自分で自分を制限したり縛り付けたりして、勝手に息苦しさを感じていた。でもこれは信仰じゃなかった。信仰を履き違えていた。

 

信仰を持っていたって持っていなくたって、みんな一緒。人間。持っている・いないで制約は変わらない。

 

 

正しいかは分からないけれど、私はこの考え方をもって生きたいと思った。生きて行こうとそう決めた。そういうことだ。これに関する正邪は主観でしかなく絶対はない。