年始

気が付いたら年が明けて10日過ぎていた。

 

年末を振り返ることも、年始に今年一年の見通しを述べることもしなかった。12月から気持ちの浮き沈みがはげしく、その時々で思ったこと/考えたことはたくさんあったはずなのに、それを書き留める気にすらならなかった。

 

仕事納め、年末年始休み、仕事始め、あまりに不安定で会社でぼんやり、イライラが抑えられずに当たり散らす、急に泣けてくる、でも目の前の仕事を整理できないまま行き当たりばったりに進める。毎日残業しても一向に落ち着かない。年末年始にも仕事を持ち帰ったが、不安が膨らむだけだった。胃腸の調子は最悪で、正月のごちそうは今年も食べられなかった。蟹、しゃぶしゃぶ、高いアイス、数の子、家族が楽しそうに食べるのを横目に、毎日吐き気と胃のむかつきを抱えて虚ろに過ごした。休みになるといつも体調を崩す。

 

よく思考を整理するために、すっきりするために、手を動かしてなんでも紙に書いてみるとよいとよく言われているけれど、それもする気にならない。

 

頭の中にもやがかかったような感覚がずっと続いている。晴れることはない。ずっと「どうしたらいいんだろう」「どうしようどうしよう」とぼんやり考えて、その答えはでない。

 

ここ10数年で一番追い詰められている。残業が多いので家族も気にするようになり、以前より話を聞いてくれるようになった。「そんな会社やめていいよ」とまで言ってくれた。それを内心うれしいと思っている自分に気付いた。ずっとずっと不幸が好きで、かわいそうになりたい、かわいそうな立場ならかまってもらえる、それだけ見ていれば何もしなくていいから。そんな心理が根底にあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

一方で、弱いことは不幸だと感じる。強ければ、賢ければ、この状況をたくましく乗り越えられるかもしれない。弱くて不幸ぶってもだれも助けてはくれないことはもうずっと前から気が付いていたはずなのだ。ならば汚らわしくてもたくましく自分で生きるしかない。

 

学生のときに人間関係に躓いてから、ずっと現実から逃げて、向き合わずに生きてきた。自分の人生を投げ出した状態で「何もしない」で生きてきた。できるだけ「自分」を消したかった。そしたら何もないまま大人になり、中年になった。場の空気を壊さないようにできる限り存在を消したかった。この歳で経験も関係も世界も狭くて浅く、学んだことも少なく、稚拙で幼稚でいつまでも中学生でも分かることが分からない。いつも受け身で他人任せで言い訳がましく依存的で能動性がない。加えて数年前から体調を崩したことで日常生活がままならなくなり、生きていくことに対する自信を一切なくした。

 

きっと、自分の至らなさを、「普通」「まとも」にはどうしたって馴染めないことを、受け入れるしかない。諦めたら成長できないからって意地になって受け入れないのではなくて、もうこの歳でこんな感じなら、これから大幅に変われるわけはなくて、負けを認めたうえでそれでも生きてゆくこと。生き延びるにはどの位置に心を置いておけばいいのだろう。苦しくても変われないなら。変わらないなら。やり方変えるしかないのかもしれない。甘えたことを言っている。でもその甘えたことを甘えだと気が付けないままずっとくだらないことをいいながらきっと誰にも相手にされずに生きていく。

 

信仰は、おすがりする気力も失った。魔法ではない。今までの思い込みや刷り込みをなくして意識をゼロベースにして、本当にそれを信じることができるか、自分の頭で考えてみたい。

 

 

自分で考えて決めて生きること。それができないと、仕事が何であれ、生活がどうであれ、ずっと不安でずっと不幸なままだ。